1683年、ウィーンにトルコ軍が攻めてきました。
ポーランドに援軍を求める使者に立ったのが、コルシツキー。
戦後、撃退されたトルコ軍が置き去りにした謎の物質。
それをコーヒー豆だと知っていたコルシツキーは、
それを譲渡されて「The Blue Bottle」を開業しました。
「ウィーンのトルココーヒーから、喫茶店は始まった。」と中谷さん。
ウィーンのカフェ文化は、東西文明の融合だったのですね。
鄭永慶は、外務官僚の息子として長崎に生まれた秀才でした。
イェール大学に留学するも、病気で帰国することに。
「金子堅太郎、駒井重格、田尻稲次郎、鳩山和夫。
イェール大学の同窓生たちが各界で活躍し始めていた。
鹿鳴館は「驕れる社交場」だとして、反発した。
鄭永慶は、本当は、学校を創設したかったが、
喫茶店で、庶民に西洋文化をもたらそうとした。」
日本最初の喫茶店「可否茶館」は、こうして生まれました。
「ある粉雪の烈しい夜、僕等はカッフェ・パウリスタの
隅のテエブルに座っていた。」(芥川龍之介/「彼 第二」)
「喫茶店には、文化的な空気があった。
芥川龍之介が小説に書く。これが、いい宣伝になった。
芥川龍之介は、喫茶店文化のインフルエンサーだった。」
菊池寛、与謝野晶子、正宗白鳥といった文化人、さらには、
ジョン・レノン夫妻にも愛された「カフェーパウリスタ」。
尚、「銀座のパウリスタで、ブラジルコーヒーを飲む」が、
「銀ブラ」の語源という説もあるとのことです。
明治時代になって、飲まれ始めたのが、牛乳。
西洋人のような体格になるために、ミルクを飲みましょう。
ということで、街に続々と現れたのがミルクホール。
「主な客層は学生。当時高かった新聞も読める。
地方から出てきた人たちにとって、新聞は情報源。
ライフスタイルのギャップを埋めるための手段。
ミルクと新聞で、喫茶店は大衆化していった。」と中谷さん。
喫茶店は、新しい時代の日本人に不可欠の場だったのですね。
古い小説を読んでいると、しばしば出てくる「カフェー」。
いまで言う「カフェ」とは、だいぶ違う雰囲気です。
「カフェーで働く女性が女給。女給は給料なし。
チップだけだから、サービスが過剰になっていった。
谷崎の「痴人の愛」に出てくるナオミは女給。
カフェーは、キャバレーだった。」と中谷さん。
やがて、カフェーは風俗紊乱として取り締まり対象に…
キャバレーが「喫茶店」になっていった大正時代。
「いったい、どこでコーヒーが飲めるんだ? となって、
現れたのが、純喫茶。エロはもちろん、アルコールも出ない。
純喫茶を主戦場にしたのが、画家・東郷青児だった。
日和っていると、ずいぶんバッシングされたけれど、
大衆に愛されることが喜びだとして、スルー。」と中谷さん。
斬新な手法の導入。さらには、女性にモテた東郷青児、
どこか中谷さんを彷彿とさせますね。
日本コーヒー史の生き証人ともいうべき故・関口一郎。
銀座のカフェ・ド・ランブルの店主として名を馳せました。
「ミルクホールで、コーヒーに出会い、飲みまくった。
徴兵されて、不時着した飛行機を調べていたら、
インスタントコーヒーに出会った。これは、勝てない。
味を知っている人が多い銀座で、鍛えられた。」と中谷さん。
「出会い」が人生を決定づける、麗しいエピソードですね。